「理解」に関する問題、あるいは「問題」に対する理解
- k2load
- 2017年2月6日
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「理解」とは何であるか。
例えば、カントの善に関する理論である目的論を「理解」するというのは、何となくイメージが湧くだろう。では、カントの『純粋理性批判』を「理解」するというのは?少し勝手が違ってくる。『純粋理性批判』という本を理解することなのか、あるいはその中で展開されるカントの論を理解することなのか。
では、もっと単純なものはどうだろうか。『桃太郎』を「理解」するというのは、どういうことだろうか。ストーリーを理解することかだろうか?登場人物の動きや性質を理解することだろうか?もっと単純に、話を聞いて楽しむことだろうか?
「理解」は、あまりに便利すぎる言葉である。喩えるなら、「大丈夫」と同じくらいに便利である。ありとあらゆる状況に、対象に、方法に、概念に用いることが出来る。
我々は、政治について「理解」することができるし、犬についても「理解」することができる。さらに、チェロの弾き方を「理解」することもできるし、雲が何故発生するのか「理解」することもできる。彼が何を食べたがっているか「理解」したり、彼女が不機嫌であることも「理解」することが可能だ。
何もかもが「理解」である。では、どんなものなら「理解」できるのか?
それは、「問題」である。我々は、「問題」を「理解」しているのである。

正解のない問題は無い。なぜなら「問題」とは、直観によって解決不能な事象に対し人間が抱く疑義であり、その疑義を一定のルールに基づいて解決することが可能であるからだ。それを端的に言ったのが、正解のない問題は無い、ということである。
同様に、「問題」のない「理解」もない。「理解」とは、直観によって解決不能な事象を千差万別の手段を使用することによって解決することである。そこではデータベースや、スキル、統計処理、解析処理、相対化等のありとあらゆる手法や事物が用いられ、ある「問題」の「理解」を行おうとする。つまり、「理解」とは「問題」に対する妥当な正解を求めることであると定義できる。
したがって、我々は無意識のうちに、無数の「問題」を作成し、それに対する正解を導き出す「理解」という行為をしているのだ。だが、これは「理解」で言い換えて良いレベルを遥かに超えている。
例えば、『桃太郎の絵本』という同じものを対象にしていても、「3才児が桃太郎の絵本を読んでストーリーを楽しもうとする」という「問題」と、「研究者が民俗学的見地から桃太郎の現在に至るまでの異同を調べるにあたって絵本を読む」という「問題」が、『桃太郎の絵本』に対する「理解」で括られて良い、と直感する人間は居ないだろう。
ゆえに、「理解力」など存在し得ない。「理解力が高い」などと言われる人間は、"その"事象に対し情報のソートや統計処理といった「問題」を作成し、それを「理解」するのが得意なだけである。他のあらゆる事象まで「問題」を効率よく作成し「理解」できるわけではない。
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