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人間の出発点

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  • 2016年12月23日
  • 読了時間: 3分

現時点の私の思考において、人間というものは以下の出発点から始まっていく。

1.人間には、遺伝子によって先天的な身体的・思考的・思想的差異が存在する。

2.人間は、協働することが可能なチンパンジーである。

3.善悪観は、"道徳"によって生起する共通理解(常識)である。これを価値観と言い換えても差し支えない。

人間は生まれながらにして個別である。これに異を唱える者はまず居ない。しかし、環境によってその人の全てが形成されていく、ということに対する盲信。これは大いなる間違いである。"環境"とは、現代社会においては国家・家庭・地域・地域の文化的コミュニティ等を指すが、これは正確にまとめて言えば"社会"ということである。"社会"は、ある目的によって構成される。それは、個人及びその属する集団の幸福を増大・維持するということである。ここにおいて、その人の思考的・思想的(道徳的)な部分は"強化"されるのである。個人の思考について、複数の人間に共通の類型化出来るパターンが存在するが、それが集団間で相対的な差異となって、対立を生む。同時に、集団内の結びつきを強固にする。これが2につながるのだ。

人間は他の動物と違い、協働が可能である。これは人間を最強の種たらしめている所以である。より協働の上手いグループが強い。それらのグループは、限られた資源を多く得ることが出来、結果的に人間という種を長生きさせ、さらには進化させていく。今後、協働に代わる圧倒的な"概念"が生成されない限り、この傾向は変わらない。より結びつきの強い集団が他を圧倒する。簡単なことである。リベラリストの国と、保守主義者の国があったとしたら、強いのはどちらであろうか?戦争になって勝つのはどちらだろうか。国力が互角だとしたら、国家(集団)の効率を増大させることができるのは、間違いなく保守主義者である。リベラリストは有事の際に、国家主義者にならなければ勝てないだろう。

さて、それでは厳格な保守主義者や熱烈な国家主義者は"善"であろうか?答えよう。その議論は無意味である。なぜなら善悪観は、そのような個人またはその属する集団を形成する際に用いられる"道徳"によって生起するものだからである。これは一般にすら言われることだが、善の反対は、また向こう側にとっての善なのである。誰もが自分たちの"善"を主張するなら、善悪に意味など無いということになる。種の観点に立つなら、どのような価値観が自集団の効率を増大させるか。それだけが重要ということになる。

人間は進化している。より多くの人々の幸福を考えられるようになってきている。戦争に勝ったからといって、敗戦した民族を皆殺しにしたり奴隷にしたりしなくなった。これはとてつもない進歩である。人間は、人類という集団を意識できるように進化したのである。そして奇跡的なバランスで、人類>国家>地域>家族>自身などのマルチレベルな社会的階層における道徳的判断を行えるようになったのである。

このような事実を鑑みれば、哲学的な正義や善の議論など参考程度にしかならないということがわかる。そしてこれは、ニーチェが書いたとおりのことである。まさに「哲学が本当に語るべきこと」はニーチェによって語られ、そしてすでに終わったのだ。そして今、哲学という空論は終わり、事実界と理論界というメタ的認知に基づく社会倫理に対する思考が正しかったことが証明できる。


Comentários


​書いてる人:シュヴァルツ

​かつて神聖ヴィンラディック帝国で官房長官をやっていたという経歴を持つ既知の外。ヘヴィーメタルをこよなく愛する、ヴィンラディックメタリストでもある。

​なんか連絡とりたい方はTwitterのDMとかでどうそ。

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​人よ、既知の外たれ。ヴィンラディックたれ。

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