学問的なものと、そうでないもの
- k2load
- 2016年12月18日
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無事卒論が終わりました。それなりに学術的論文として仕上がったと思います。これでしばらくは思索にふけることができるかな?
ところで、これは雑談だが、文学は学問だろうか?
これは私が昔からずっと考えてきたことであり、近代から多くの人が議論してきた問題である。
雑談なのでスパッと言ってしまうと、学問ではないと思う。それは私の定義する「学問」に由来する。その「学問」の条件はただ一つ、再現性が有ること。これだけだ。
文学には再現性がない。いや、何を再現するんだと思うかもしれないが、要するに文学とは議論の集合体であり、喩えるならば議事録のようなものである。つまり、議論が再現できるかどうか。ある文章があり、ある読み方(文学理論を用いるならそれ)があり、それについて議論する。その結果、文学はどうなるか。その場その場、その論文が出る前と後、つまり時と場合によって、議決が異なるのである。
これはおかしいと思い、私は文学研究において再現性があるような、つまり100人が見たら100人が納得する内容の研究を心がけた。ところが、それをやると途端に「文学」は看板を掛け替え、「歴史学」や「社会学」、「民俗学」に変わっていくのである。
さあ怪しくなってきた。しかも近年では、文学はいわゆる文学作品である文章媒体以外にも、アニメやドラマ、映画に手を出しているという。これは…なんというかまさにカルチュラル・スタディーズめいている。だが文学におけるソーカル事件は起きそうにない。それは何故かというと、カルチュラル・スタディーズはそもそも"理論遊び"に過ぎないが、文学は"看板"だからである。だから、あるアニメについての(その中では完結した議論である)論文が出た場合、それは内容的、カテゴリー的にはアニメ論・大衆文化論などであるが、"文学という看板を掛けたもの"になる。つまり、専門的な分野で見れば、一応の学術的体裁と論法が揃っているのである。
しかし、それら「文学」の看板の付いた議論は、やはり「議論」であっても「学問」ではない。だから私としては、「歴史学」「社会学」「言語学」と同じカテゴリーに「文学」があるのは違和感でしかない。
文学が虚であると言いたいのではない。文学が求める知的体系のベクトルは、明らかに言語学や社会学が求めるそれと違うのだ。いや、そもそも文学は体系を求めていないだろう。文学が求めるのはひとえに議論であり、それはつまり研究者にとって「経験」ということである。文学は再現性のある「学問」ではなく一期一会の「知的経験」なのだ。
そう考えると、文学は茶の湯と同種、というのは冗談が過ぎるだろうか。

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