名作とは古典となる物のこと
- k2load
- 2016年10月17日
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2000年代中期のアニメを見てみよう。
2005年には、当時一世を風靡したタイトルがいくつか見られる。『ハチミツとクローバー』、『AIR』、『灼眼のシャナ』、『創聖のアクエリオン』、『なのはA's』などなど…。
たしかにこれらの作品は良質であり、いわゆる「売れた」作品であるといえる。
では、これらは「名作」だといえるだろうか?
スタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』を、「まだ人類が月にも着いていない時代に撮った古臭いSF映画」と評したり、『メトロポリス』を「戦前の無声映画であり今では見る価値もない駄作」などと評したとしたら、その人間は目が腐っていると言えよう。これらは紛れもない「名作」、「マスターピース」、「クラシック」である。
ルートヴィヒの交響曲を「古臭い音楽」などと言ったら笑われる。それはそうだ、だってそもそも古いのだから。しかし、我々はなぜその古いものを今でも演奏したり、CDを買ったり、コンサートに出向いたりするのだろうか。それはまさに、その作品が「名作」だからである。
単に「古い」ということだけが「名作」の条件では決してない。そこにはある種、全時代、全パラダイムに通用する「良さ」があるのである。流行を取り入れた不易、とでも言うべきか。この逆ではダメなのだ。
では、最初に挙げた11年前(2016年現在)のアニメ作品は、現代でも通用するだろうか?私はNOだと思う。2005年のアニメで、「名作」として通用しそうなのは、私の知る限りで『ガン×ソード』ぐらいである。
「歴史的遠近法の中で古典になっていく」のは、一握りの「名作」だけなのだ。

まあ、時代の流れに乗って出てきた作品に熱狂したあと、冷静になって観たらそうでもなかった…なんてのはそれこそ「時効」ってことで。
しかし、TV文化が産んだドラマやアニメというのは、未だ「古典」となっていくための様式が完成されていないと思われるのだが、どうだろう。要するに、それらを評価するためには数時間あるいは数十時間にも及ぶ視聴が必要であり、語るレベルに達することがそもそも難しい。2クールのアニメを観るのは『ロード・オブ・ザ・リング』三部作を観るに等しい作業なのだ。また、そもそも「作品」として残ることよりも「消費」されていくことが前提のものであり、体系的な再評価の土壌が未発達である。
実際に観て自分で評価することが、何よりも大切なジャンルなのかもしれない。
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