学校教育について思うこと
- k2load
- 2016年10月5日
- 読了時間: 4分
教採、受かりました。
来年度から正式な教員として働くことになるのはほぼ確実になりました。
ということで、ちょうどいい機会です。学校教育について思うことを雑談レベルで書いておこうと思います。

私は学校が存在しなくてもいいと思っている人間である。
教採受かった日にこんなことを書くのはなんだが、実際そうだから仕方がない。
イヴァン・イリッチの『脱学校の社会』を読めば、およそこの考えに共感する者は多いのではないか?
私は何もイリッチの語った脱学校後の社会を理想としているわけではない。イリッチの語った「学校社会化による弊害」が問題だと感じている。それはイリッチが言わずとも、誰しもが気づくべきことだし、私自身思ったことだ。
私が学校教育(およびそれによる社会的影響)に感じている"脅威"は、大きく2つある。
一つは、学校における"勉強"ができることが"優秀な人間"の証明として機能してしまう点。
もう一つは、学校による人生の類型化である。
国語算数理科社会英語が良くできる人間が"優秀な人間"というのが現代の風潮である。果たしてそれは時流にあっているだろうか?近年では「コミュニケーション能力」などが取り沙汰されているが、結局のところコミュニケーションするだけの"中身"が成熟した人間はそうそういない。学校教育は、そこを忘れている。つまり、ツールとして、経験的な知識と応用可能な技術としての"勉強"は教えるが、人格的、思想的、さらに言えば"思考的"な中身の育成に関してほぼノータッチである。あるいはタブー視されている。
この結果選別された人間が、現代社会を形づくっているわけである。どこか歪で、しかし正常と"見なされる"社会。現代の社会が求める、また、生きていける人間と、現代の学校教育が送り出す人間。果たして一致しているだろうか?それは本当に"優秀"な人間だろうか?
そして6~18歳までの人間を"子供"とする(法律上の定義など、この際社会的事実にとっては無意味)社会においては、人生はあるパターンが組まれている。いまさら言うまでもないが、我々は簡単に、この"路線"の"駅名"と"乗り換え"を語ることができる。
それは、実は異常なことではないのか?
"子供"たちはよくこのパターンを理解している。そして、それに好むと好まざると取り込まれていく。彼らは気づかない。そのパターンを完璧に"乗り継げる"のは、彼らの2割に満たないであろうことを。どこかで"途中下車"する。もしくは"運賃"の"安い"方へ。
そして気がつかない。それでも自分が"列車"に乗り続けようとしていることに。
"終着駅"についたら"車"がおいてある。どんな"車"かは自分の運次第だ。そして始まるのは"チキンレース"か、"ドラッグレース"か…。
とにかく、これは理不尽ではないのか?押し合いへし合いされながら満員電車に乗りこむのは下手だが、車の運転は上手だ、という人間もいるだろう。車までたどり着けなかった人間はどうすればいい?これは前に自分で書いたようなことだが「連立方程式の解けない名医」と、「等差数列の問題を簡単に解くことのできるヤブ医者」は、どちらが勉強ができて、どちらが医者として優秀だろうか?これは言うまでもない。
例を出すと切りがないが、AK-47の開発者カラシニコフは自分で図面を書けなかった。そんな専門的な領域ですら、創意工夫による努力と才能の結晶が生まれることがあるのだ。
機会を与えると言って、実際は機会を奪っている。そういうことになってはいないだろうか?文科省は学力テストの結果を踏まえ、正式に認めている。「高収入の世帯ほど成績がいい傾向にある」と。金持ちが"優秀"なら、生まれるときから受験戦争は始まっているのだ。
そんなことを思いつつ、しかし私は教員になる。これは相当な矛盾だ。実際昔は多少悩んだりもしたが、今では納得している。過去の自分では思いもよらぬ方向で。
とりあえず、学校教育という社会的制度について思うのはこのくらいだ。文科省や中教審に文句を言い始めたら止まらないし不毛だ。学校における教育活動の具体的なことを書き出すと切りがない。
とにかく、学校教育を取り巻く日本の社会に言いたいのはこれだけだ。
「あまり学校に期待しないでください。運営してるのも通ってるのも、あなたと同じ"人間"なんですから…」
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