最近のニュースについてボヤく3:「トロッコ問題が"問題"たり得るのは何故?」
- k2load
- 2016年9月30日
- 読了時間: 4分
第3回はニュースというか、こちらの記事にボヤきます。
七万人の命と百六十四人の命は平等か? 全世界で論争を巻き起こしている問題作『テロ』 http://news.nicovideo.jp/watch/nw2415383

●尽きない議論ですね
この記事を読んで「トロッコ問題」「正義は善に優先するか」「功利主義」「リバタリズム」などの単語が浮かんだ人には、もはや解説不要だろう。そもそも『テロ』の中でもそこが焦点となっているようなので、記事でも少しばかり触れられている。
思考実験:トロッコ問題についてはあらゆる観点からの解釈と考察がなされている(誤解も多いが)。とにかく議論は尽きない。それだけ「納得できる結論」は無いということだ。それは何故だろう?命の価値の捉え方は人それぞれだから?それは実に功利主義的議論だ。カント的な義務論の話をしてもいい。
だがここでは違う見方をしてみようと思う。それは、人間の道徳的スイッチだ。
●本能的道徳から考える
この思考実験でジレンマを抱えているのは「ケア」と「危害」である。人間の道徳的スイッチとして、他人を守りたいという「ケア」、そして他人を害する事物を排除したいという「危害」が対になって存在している。
「ケア」としては、7万人の救出、「危害」としては164人の殺害。これが当事者となった人物、そしてこの事態を認識した我々の中でせめぎ合っているのだ。つまり、当事者は道徳的に「悪い」行為によって道徳的に「善い」結果を生じさせたということになる。
●その他の「道徳的ジレンマ」
これと同様道徳的ジレンマを抱えるが、人の生死がかかわらない状況を考えてみよう。
例。
ある国で大統領選挙が行われた。その候補Aは、自分の得票数を不正に釣り上げるよう賄賂を行って勝利した。なぜなら、対立候補のBは「金持ちは税を安く、貧乏人は税を高くする!」という政策を掲げていたからだ。しかも、この国は金持ちが多いのでBは世論調査の支持率でAを圧倒していた。AはなんとしてもBに勝ち、貧しい人々を救うため、その政策の実現を阻止せねばならなかった。さて、Aは正しい?間違っている?
これは「公正」と「欺瞞」の対になった道徳的スイッチが同時に入っている。
●「道徳的ジレンマ」の解決法
実は、道徳的ジレンマは解決できる。これは驚くべきことかもしれないし、あたり前のことなのかもしれない。ただ、これは「道徳的ジレンマを抱える"問題"に対する解決」ではない。普遍的方法として言うなら「理屈をつける」、そして「それを信じる」ことである。
例えば「最大多数の最大幸福」という理論的理想がある。これをある具体的状況に対して持ち出すなら、「たしかに少数の犠牲は出るが、遥かに大勢を救えるではないか。私はそのことをもって少数の犠牲を受け入れる」と"自分は考えた"のだと"信じる"のである(このプロセスはほぼ無意識的なもの)。
●理論の存在意義
人は道徳的ジレンマが生じる事象だけでなく、道徳的スイッチが入る事象全てに対して、この「理屈をつけ、それを信じる」というプロセスを踏んでいるのだ。
例えば、自分の腕を切り落として庭先でバーベキューを行い、「食べたい」という人にはその腕の丸焼きを食わせた人間がいたとして、それに対して感じる嫌悪感は何だろうか。本人も合意、食う人も合意、誰も悲しまず、誰も損はしていない。これに対し理論的な批判を行うのは容易ではない。何だか分からんが、とにかくやめろ、と人間が思ってしまうのは、「自分の肉体を損壊してはいけないという法律があるから」や「子供の教育に良くないから」や「親にもらった大切な体だから」といった理屈のせいではなく、この場合は「危害」「衛生」などの道徳的スイッチが反応しているからである。
理屈をつければ納得することができる。「理想」が含まれる、または「理想」に抵触する「理論」は、道徳的直観の解釈(この場合"ラベルづけ"と言えるかもしれない)として存在意義があるのだ。
●参考書
マイケル・サンデルの『ハーバード白熱教室』や『公共哲学』は最低限だが、今回の見方についてはジョナサン・ハイト『社会はなぜ左と右にわかれるのか』における道徳心理学、および進化心理学が大きい。最近出会ったこの本によって考えさせられた事は非常に多い。
Comments