道徳的価値観の機能
- k2load
- 2016年9月28日
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理想と現実。リアリズムとユートピアニズム。
それは保守的停滞と進歩的冒険である。
現実におけるユートピアニズムの作用は注意せねばならない。
戦間期以前の国際政治学、そして戦後の世論の中では「まともな情報を、まともな人々に与え、まともな議論が行われれば、まともな結論が出る」とされた。
つまり「平和が一番という情報が、世界中の一般大衆(世論形成者)に与えられ、まともな議論(国連会議など)が行われれば、世界平和が実現する」ということである。
当然、これは実現しなかった。
平和は理想である。ある場合においては戦争も理想となる。
個人の利益追求は、集団、国家、世界の利益につながる(利益調和説)というのもまた理想である。
理想は理想としてのみ存在し、その現実との齟齬は、妥協、あるいは見て見ぬふりによって補完される。
そのような状態が一世紀続いた。人間は今や、平和を道徳と結びつけて考えることができる。
理想はあくまで理想であり、実現できる可能性は限りなく少ない。だが、その実現が道徳的価値観によって善と判断されるとき。それが実現しない状況、あるいは阻害する事態に対して、道徳的嫌悪を感じることができるようになってきている。
この機能は、果たして進化なのだろうか?
平和、民主主義、自由主義、平等主義、これらの理想が道徳的善となったとき、人間が今まで以上に、生物として強くなることができるのだろうか。それとも理想と現実のギャップを埋められない、矛盾した生物として一歩後退するのか。
あるいは、既になっているのか?
理想と現実の認知における境界が無くなったとしたら、それは危険である。個人のレベルでは問題ないかもしれないが、むしろ集団、社会、国家のレベルのほうが、この傾向は顕著ではないかと思われる。
これらの理想を狂信ではなく、道徳的価値観という本能から意識できる人間が多数を占めれば、理想は現実になるかもしれない。
それは果たして進化だろうか?

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