将帥列伝:2「ゲオルギー・ジューコフ」
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- 2016年9月22日
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歴史に名を残した将帥を勉強しながら紹介するシリーズ。第2回はこの方。

ゲオルギー・ジューコフ。ソ連邦元帥。ソ連邦英雄(4度)。独ソ戦、ひいては第2次世界大戦を連合国の勝利に導いた名将である。
●出生
ジューコフは1896年、モスクワ近郊の村に生まれる。初等学校では優秀な成績だったが、家が貧しかったため進学せず、毛皮職人見習いとして奉公する。1915年、第一次世界大戦のためロシア帝国軍に招集されたのが軍歴の始まりである。
●軍歴
ロシア帝国軍(1915年~1917年)
労働者・農民赤軍(1918年~1946年)
ソビエト連邦軍(1947年~1974年)
・参謀総長(1941年)
・最高司令官代理(1942年)
・最終階級:ソ連邦元帥
●注目すべき出来事
ジューコフが指揮官以上の任で参加した戦争は、ノモンハン事件、そして第2次世界大戦である。
ノモンハン事件の知名度は現在非常に低いが、これは当時としても同じであった。しかし、ジューコフによる「戦車と自動車化された歩兵による戦線突破と両翼包囲」は、ドイツによるポーランド侵攻よりも早く行われた戦術的電撃戦の実践例である。このように早くから(といっても、当時の列強各国の中では多くの若い将官が電撃戦の可能性に気づいていたが)第1次世界大戦的戦術・戦略からの脱却と、新戦術を見出していた。そのため、ジューコフは独ソ戦が始まるまでに赤軍の機械化に奔走し、結果的にドイツ軍を上回る装甲軍を用意することに成功する。ただ、戦争はハードだけでは勝てない。大粛清によるソフトの弱体化、そしてドイツ軍の完璧な奇襲作戦によって、ソ連は存続の危機に立たされる。
ジューコフは初期の戦いで、レニングラードの防衛に当たる。最終的にレニングラードが包囲戦に勝利し、「英雄都市」と呼ばれるようになったのも、彼の活躍有ってこそである。また、ドイツ軍のタイフーン作戦に対し、モスクワ正面に防御線を築き、シベリアから冬季戦に優れた兵員をダンピング鉄道輸送することで、これを阻止した。モスクワ防衛に成功することで、ヨーロッパ・アメリカに「まだソ連は負けていない」ということを示すだけでなく、ドイツ軍の消耗を誘い、赤軍が体勢を立て直す時間を作ったことは、第2次世界大戦における最大の功績であろう。
そして、1942年11月19日~23日。最高司令官代理(つまり、あのスターリンの代理!)となったジューコフは、ウラヌス作戦を成功させた。弱体なルーマニア第3・4軍を攻撃し、ドイツ第6軍をスターリングラードに閉じ込めたのである。これは後にヒトラーの死守判断によって大戦におけるターニングポイントになる。
その後、1944年6月22日。バルバロッサからちょうど3年後のこの日にバグラチオン作戦を開始。これによってソ連の勝利は確実なものとなった。
●軍事思想
徹底的な電撃戦論者にして、人海戦術論者といえる。ノモンハン事件も第2次世界大戦も勝利したにも関わらず、彼の指揮した軍は敵軍の死傷者数を圧倒的に上回っている。ロシアの人口の多さ、物量の優位性を活かし、冷酷な決意でもって目的を達成する。理論的には誰でも思いつきそうだが、それを実践する能力と精神力を持った人間は、ジューコフ以外ありえなかっただろう。
このような、機械化部隊による浸透と人海戦術の融合は、後のワルシャワ条約機構軍による無停止攻撃(機械化波状攻撃)ドクトリンとして結実する。全軍の支援を受けた第一梯団が突破を図り、消耗したら後方に続く第二梯団、第三梯団…と交代することで波状攻撃を実施する。苛烈な意思と、綿密な計画。これこそジューコフの残したものであった。
●私から一言
よく大粛清を生き延びた!ジューコフがいなかったら歴史は完全に変わっていただろう。電撃戦のなんたるかをよく理解した、ソ連版グデーリアンという印象である。スターリンがこのような大人物に自由にやらせたところを見ると、戦中のソ連上層部は恵まれてるなあと思う。それに比べてドイツは…。
とにかく歴史を作った名将である。その戦術に、前線の兵士はたまったものではなかったろうが、戦争は勝てなければ意味がない。どんなに損害を出そうが、あの独ソ戦に「勝った」という一点だけでも大いに評価されるべき人物だ。なぜ知名度が低いのだろうか…?
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