遺伝と人間
- k2load
- 2016年9月20日
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私は遺伝について、これまであまりにも教科書的な解釈をしてきたと思う。つまり、遺伝というのは"形質"を継承するものであって、それは例えば骨格や肉体のつくり、神経や脳の構造など、"形質"という語が表すように生物の組成、本能に関わっているということである。
それは一応正しい理解、だと思う。だが、それは誤った解釈を生じさせていた。例えば、性格は"形質"に含まれず、後天的に"獲得"するものである、などといった根拠のない実感である。
オオカミとイヌの遺伝子組成はほぼ変わらない。彼らを分けるのは、ほんの僅かな遺伝子組成の違いである。しかしそれは非常に大きい違いである。ニホンオオカミが絶滅して、雑種の柴犬が大量に生息している理由。それは、人になつくかどうか。それだけである。
イヌは人になつく。いや、なつく個体だけが選択され、その他は淘汰されてきたのである。
では人間は?

古生物学者のグールドは、ここ最近(1万2000年)の間、人は遺伝的に進化していないと断言した。人類の繁栄は文化的な進化によるものであり、我々は1万2000年前の祖先と同じ体でここまでの文明を築きあげた、としている。
だが、ソ連のベリャーエフによるキツネの育種実験はそんな論を蹴散らしてしまう。野生のキツネを捕獲し、人を怖がらない個体を繁殖させていった結果、ほんの数世代で、従順でペットのようなキツネが得られたのだという。オオカミがイヌになったように、それらのキツネは牙や顎が極端に小さくなり、尾はカールするようになった。
性格も遺伝する。性格が遺伝するなら、例えば社会を形成する"集団意識"、ルールを守ろうという"規範意識"、正しいことをしようという"正義感"も、遺伝しないほうがおかしいのではないか?
そして数世代で野生のキツネがペットギツネになる、つまり家畜化するなら、1万2000年もの間交配を続けてきた人間が遺伝的に選択され進化する、淘汰されるというのは、当たり前の話ではないか?
もちろん憶測で考えてはいけない。より詳しいヒトゲノム情報の解釈が待たれるところである。
かつて「犯罪者には遺伝的な原因がある」という主張が当たり前になされていた時代があった。そして、社会学や犯罪学が発達する中でそれらの説は「根も葉もない差別的な主張」として、「環境が犯罪者をつくる」という主流ができた。
今でもそう言えるだろうか。外見的形質以外にも遺伝するとして。犯罪的、反社会的な"行動"や"態度"は、遺伝していないだろうか。彼らを類型化することができはしないだろうか。
私たちが嫌っているのは、犯罪者なのか、それとも犯罪的遺伝子なのだろうか。
どちらにしろ、治安の良い現代社会では"それら"が淘汰されていく。
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