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私の考えること

  • k2load
  • 2016年9月19日
  • 読了時間: 2分

思考って言ったってお前何考えてるんだ普段、と自問することで、これまで考えてきたこと、これから考えていくことを多少明確にしていこう。

私がこれまで考えてきたことを一括りに言い表すなら、「世界」、ということになるだろう。そこから分析していくと、「人間」と「事物」、という2つに分かれる。さらに「人間」は「社会」「政治」「思想」などといったものに分かれていく。当然、そこから更に細かく、具体的なものに対しても思考している。

世界を洞察し、概念を吟味し、理解し、再構成していく。そうすることで、私の見る世界の景色は変わってきた。今後も変わり続けるだろう。

具体的事象と抽象的概念とが、極めて近くに見えるようになった。帰納的思考と演繹的思考がほぼ同時に行われる。他人にとってはほぼ無視される些細な出来事が、私には社会の根幹に関わる出来事に思えたりする。それは幸せなのか不幸なのかわからないが、とにかくこれまでの思考の結果、そういうことになっているというのは確かだ。

そんなこんなで色々と考えてきた結果、知らない間にニーチェと同じ考えに行き着いたりしたわけだが、私自身はあまり哲学に傾倒したくないと思っている。自分の思考を、哲学、と言ってしまうのは何というか、違うと思う。そもそも哲学という学問の枠組み自体、おかしいと思う。私としてはカントとヒュームが同じジャンルとして括られるのはどう考えてもおかしいと思うのだが…どうなんだ?

ニーチェは『善悪の彼岸』の序文で、哲学者のことを「独断家」と揶揄し、その「哲学」が、単なる迷信的思考やある種の人間的思考の一般化に過ぎないと断じている。つまり、それまで「哲学」とされてきたものは、何ら「哲学的」でないと気持ちよく切り捨てたのである。

要するにこう言いたい。思考すべきは「根本」である。根っこである。葉はいくらでも出てくる。茎もやたらめったら生えてくる。それは、いくらでも見つけられるし、生やそうと思えば生やすことすらできる。しかし、根っこはそうはいかない。土の中に隠れた根っこは、誰にも手を出されること無く、偽装されることもなく、だが厳然たる事実として存在している。

そしてもう一つ。そのように、葉や茎を観察して何か議論したり、ある葉っぱを出させようと手をつくしたりする人間、それ自体ついて考えるべきだ。

つまりこういうことになる。私は「世界の見えない根幹」について思考するとともに、「世界の見える部分について思考したり議論したりする人間」について思考するのだ。


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​書いてる人:シュヴァルツ

​かつて神聖ヴィンラディック帝国で官房長官をやっていたという経歴を持つ既知の外。ヘヴィーメタルをこよなく愛する、ヴィンラディックメタリストでもある。

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​人よ、既知の外たれ。ヴィンラディックたれ。

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